人生で一番しんどかった労働

ブログを始めた時、一週間連続更新が目標と言ったのに4日しか続かずすっかり放置してしまった。
バイトを始めたと言ってもそれほど長い文章でもないし毎日書くくらいのことはできるはずなのだけど、家に帰ってきたらダラダラしたい誘惑に勝てず、画面を開くことが出来なかった。

世間ではGWも終わり、緊急事態宣言も解除されるかという状況で、こないだまではやたら忙しかったピザ屋も平常営業に戻りつつあるようだ。
新人が大勢入ったのはいいけど配達の仕事がないらしく、昨日は昼間から住宅地を歩き回ってチラシをポストに入れる仕事をやらされるはめになった。

バイクに座って走り回る仕事のはずが、チラシがパンパンに詰まったかばんを背負って炎天下を歩き回る仕事に変わったのは正直詐欺だと思うが
俺にはこういう時、「あのオーストラリアの思い出に比べたら楽園のようなものだ」と考えることにしている。

俺は仕事を辞めたあと、海外で生活してみたいという夢を叶えるためにワーキングホリデーでオーストラリアに1年間住んでいたことがある。
思い出すのはその中でも終盤のとにかく金がなかった頃のことだ。
旅立つ前に用意していた100万円の軍資金もその頃には残りわずかとなり、せっかくオーストラリアにいるにも関わらず、安下宿で無為に日々を過ごす生活だった。

色々仕事を探してはいたのだが、当時オーストラリアは空前の失業率で、現地民ですら仕事がないような状況、外国人労働者である俺に回ってくるような仕事がないのだ。
「稼げる」と聞いていた農作業の仕事では何度もハズレくじを引き、様々な農場地帯を転々と渡り歩くたびに何故か状況は悪化の一途をたどり、最終的にはマリファナの匂いが染み込んだトレーラーハウスに住みながら早朝にイラン人の手配するバンに詰め込まれ、どこともしれぬ農場で人権のない労働をさせられるところまで身を落としていた。
さすがに疲れ果ててしまった俺は、もう稼げなくてもいいからまともな仕事がしたいと、西オーストラリア州の州都、パースにたどり着いた。

ショッピングセンターのカート引きの仕事が狙い目という情報をmixiで読んだ俺は、家主に自転車を借りて近所のショッピングセンターへと履歴書持参で向かうことにした。
近所と言っても下宿から2km以上はあった気がする。そのくらい離れないと個人商店でない大きいお店はないような辺鄙なところだ。
ショッピングモールに到着した俺はとりあえず、実際に駐車場でカートを集めて運んでいる黒人の男に話しかけてみた。「仕事を探してるんだけど…」
男の反応は露骨に「俺に言われても困る」という感じだった。考えてみれば当たり前だ。彼は単なる従業員に過ぎないし、もし俺が雇われればその分そいつのシフトが減らされることになってしまう。迷惑だろう。

「俺のボスのMikeに話をしてみたら良い」と教えてもらったが、Mikeはここではなく、別のショッピングモールにいるらしい。通りを北にまっすぐ行けば5分ちょっとで着くと言う話だったのでそのまま自転車で北に向かうことにした。
ところで、この思い出は2009年の12月上旬頃の話である。オーストラリアは南半球なので12月といえば夏休み直前、夏真っ盛りである。
日本ほど湿度がないので体感的にはマシとはいっても日中の気温は30度を超えている。そのうえ日差しは比較にならないほど強い。坂の多い道を自転車で登ったり下ったりするのはなかなかにしんどかった。
それなのに、いくつ坂を登っても目当てのショッピングモールは見つからない。5分どころではなく、10分、15分、30分が経っても一向に見つからなかった。
この坂道を登ればきっと…
子供の頃そんな短編を読んだ記憶がある。
山を越えれば海が見えるという話を聞いた子供が、どれだけ山を越えても海にたどり着けず、今更戻ることも出来ずに日が暮れかけた山中で絶望的な気持ちになる話だ。このときの俺はまさにその少年だった。

やがて、自転車のタイヤがパンクした。
借り物の自転車である。
よほどその辺に放置してバスか何かで帰りたかったが、流石に良心がとがめた。一旦停めておいて帰りにまた拾えばいいかと思い、とりあえず歩くことにした。
次の坂道を登り終えると、下った先の交差店に自転車屋らしき店が見えた。
先程放置した自転車のところまで引き返して、押しながら坂道を登る。やはり自転車屋で間違いなかった。
パンクの修理をお願いしたところ、これはもうタイヤのチューブがいかれてるから買い換えないとダメだよと言われた。交換費用は100ドルだという。
その時の俺に100ドルを出す余裕はなかった。
諦めて再び自転車を押しながら次の坂道を登った。

結局、ショッピングモールにたどりつくまでには1時間くらいかかったように思う。そんなものは実在しないかもしれないと思い始めた頃だった。
おそらくだが、5分というのは車での話だったのだろう。ショッピングモールの目の前に停まるバスを見ながらそう考えることにした。

その後どうなったのかはよく覚えていない。
壊れた自転車を押しながら下宿先に戻ってこれたのは陽がすっかりくれた夜中だったと思う。ショッピングセンターにMikeはいなかった気がする。
しかし、俺はその後実際にショッピングモールのカート引きの仕事を監督している男の電話番号を入手し、連絡をとったことだけは間違いない。なぜなら俺はその仕事についたからである。入手経路は結局mixiだった気がするが。
そしてその「ショッピングモールのカート引きの仕事」というのがタイトルに書いた、人生で一番しんどかった労働なのだ。

(続く)